ジョン・レノンが、米沢生まれの画商のお店を訪れていた。
以前、新聞でそんな話を読んだことがありました。あらためて調べてみると、その画商は、木村東介さんという方でした。
この記事では、米沢から東京に出て、日本の「ふつうの人の美」を集め続けた木村東介さんと、そのお店を訪れたジョン・レノンのことを書きます。
米沢に生まれた画商、木村東介さん
木村東介さんは、1901年(明治34年)、米沢市門東町に生まれました。米沢商業学校をやめて、文学をこころざして上京し、やがて美術商の道に進みます。
1932年(昭和7年)に美術商「羽黒洞(はぐろどう)」をおこし、1936年(昭和11年)、東京・湯島にお店をかまえました。はじめは、東北の素朴な手仕事の品をあつかう「奥州げてもの店」でした。
木村さんは、肉筆浮世絵や大津絵、泥絵、幕末から明治のはじめの洋画などを集めました。柳宗悦や吉川英治など、多くの文化人とも交流がありました。
また、まだ名前の知られていなかった長谷川利行や斎藤真一といった画家を支え、米沢出身の書家・宮島詠士の作品も世に紹介しました。
ジョンとヨーコが、羽黒洞にやってきた
1971年1月、ジョン・レノンとオノ・ヨーコは、お忍びで日本を訪れました。そのとき、ふたりは突然、湯島の羽黒洞にあらわれ、「浮世絵が見たい」と言ったそうです。
木村さんは、はじめは誰が来たのかわからなかったといいます。ふたりを自宅に招き、とっておきの作品をゆっくり見てもらいました。ジョンはこのとき、松尾芭蕉や小林一茶、良寛の書、白隠や仙厓の禅画など、たくさんの作品を買い求めたそうです。なかでも、芭蕉の句が書かれた短冊に心を動かされたといいます。アートインデックスの羽黒洞の紹介には、曽我蕭白などを買ったことも書かれています。
のちに木村さんは、50年以上この仕事をしてきて、説明しなくても作品のよさをわかってくれた最初のお客さんがジョンだった、と語っています。
日本では、身分の高い人に好まれたものほど上等とされがちだけれど、自分があつかってきたのは、ふつうの人たちの美術だった。そして、そのよさにいちばん強く応えてくれたのが、元ビートルズの彼だった。木村さんは、そんなふうにふり返っています。
歌舞伎座で流れた涙
ジョンとヨーコに少し時間があると聞いた木村さんは、ふたりを歌舞伎座へ連れていきました。
はじめての人には、むずかしいだろう。そう思っていた木村さんは、ジョンの頬に涙が流れ、ヨーコがそっとふいているのに気づいて、おどろいたそうです。
物語や細かいところがわかったわけではない。ジョンは、舞台の上で起きていることよりも、自分の心の中に見えたものを大切にしていたのだろう。木村さんは、そう考えたといいます。
説明しなくても、伝わるもの
言葉も、物語も、くわしくはわからない。それでも、絵や舞台を前にして、心が動く。
米沢生まれの画商が集めた、名もない人たちの絵に、ジョン・レノンは何かを感じとりました。説明よりも先に、心にとどくものがあったのだと思います。
わたしも、絵を描くとき、説明がなくても伝わるものを大切にしています。飾った絵を見たときに、言葉より先に、何かを感じてもらえたら。
わたしの住む山形から東京へ出て、日本の美を見つめ続けた人がいたこと。そして、その目にジョン・レノンが出会ったこと。なんだかうれしくなる話です。
関連する読みもの
【参考にした情報・引用元】
nippon.com(ジョン・レノン生誕80年:禅、俳句…日本とのつながり/2020年)
東京文化財研究所 東文研アーカイブデータベース(木村東介『日本美術年鑑』平成5年版)
米沢日報(木村東介)
アートインデックス(羽黒洞 木村東介)
文春オンライン(青木冨貴子『ジョン・レノン 運命をたどる』より/2025年)
