お医者さんが、薬のかわりに「美術館に行ってみてください」と処方する。
そんな取り組みが、いま世界のあちこちで広がっています。「社会的処方」、そして芸術や文化を使う「文化的処方」と呼ばれるものです。
この記事では、カナダ、イギリス、そして日本で進んでいる取り組みを、数字とともに紹介します。
カナダ・モントリオール美術館の「美術館処方」
2018年11月、カナダのモントリオール美術館は、フランス語圏の医師の団体と協力して、医師が患者さんに美術館の見学を「処方」できる取り組みを始めました。
参加した医師は、1年に最大50枚の「処方せん」を出すことができ、1枚で大人2人と子ども2人まで、無料で美術館に入ることができました。家族や付き添いの人と一緒に、作品を見に行けるようにしたのです。
対象として挙げられたのは、心の不調や、慢性的な病気を抱える人など、さまざまな人たちでした。美術館を、心と体の健康を支える場所のひとつとして考える、新しい試みでした。
イギリスでは、年間130万人が「社会的処方」に
イギリスでは、国の医療制度(NHS)が、2019年に発表した長期計画の中で、「社会的処方」を全国に広げる方針を打ち出しました。
社会的処方では、「リンクワーカー」と呼ばれる専門の人が、患者さんの話を聞き、地域の運動の会やボランティア、アートや音楽の活動など、その人に合った場所につないでいきます。
ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の研究チームが2025年に学術誌『ランセット・パブリック・ヘルス』で発表した分析によると、2023年の1年間だけで、およそ130万人が社会的処方につながりました。イギリス全体で働くリンクワーカーは、3,300人をこえています。
世界保健機関(WHO)が調べた、3,000をこえる研究
2019年、世界保健機関(WHO)のヨーロッパ地域事務局は、芸術と健康についての3,000をこえる研究をまとめた報告書を発表しました。
この報告書では、絵を見ることや描くこと、音楽、ダンスなどの芸術活動が、病気の予防や、心と体の健康を保つこと、病気とともに生きる人を支えることに、さまざまな形で役立つ可能性があると示されています。
「芸術は、ぜいたく品ではなく、健康を支えるもののひとつ」。そうした考え方が、少しずつ世界に広がっているのです。
日本でも始まっている「文化的処方」
日本でも、取り組みが始まっています。
東京藝術大学を中心とする「共生社会をつくるアートコミュニケーション共創拠点」では、37の機関が参加して、「文化的処方」の開発と実装に取り組んでいます。孤独や社会的な孤立が課題になるなかで、アートを通して人と人がゆるやかにつながり、その人らしくいられる場所をつくることを目指しています。
熊本市現代美術館は、熊本市や熊本大学と連携して「熊本版」の文化的処方を進めています。滋賀県立美術館も、ウェルビーイングに役立つ美術館を目指した事業を進めています。
毎日の暮らしの中の、小さな処方
美術館に行くことは、特別なお出かけかもしれません。けれど、家や職場に飾られた一枚の絵は、毎日、何度も目に入ります。
朝、出かける前に。仕事の合間に。夜、一日の終わりに。ふと絵に目をやる、ほんの数秒の時間が、心をほっとゆるめてくれることがあります。
もちろん、絵は病気を治す薬ではありません。けれど、心が動くものを身近に置いておくことは、自分を大切にする、小さな習慣のひとつになると思います。
わたしが絵を描くのも、そんな一枚を、だれかの毎日のそばに届けたいからです。
【参考にした情報・引用元】
モントリオール美術館・Médecins francophones du Canada(美術館処方の取り組み、2018年)/CBC News(2018年10月)
Bu, F. & Fancourt, D. ほか(National roll-out of social prescribing in England’s primary care system/The Lancet Public Health, 2025)/UCL(Social prescribing rises sharply among England’s GPs, 2025)
WHO欧州地域事務局(What is the evidence on the role of the arts in improving health and well-being? A scoping review, 2019)
東京藝術大学「共生社会をつくるアートコミュニケーション共創拠点」(JST 共創の場形成支援プログラム)
美術手帖(熊本市現代美術館の文化的処方)
滋賀県(滋賀県立美術館の事業資料)
