
わたしが住む上山市には、歌人・斎藤茂吉さん(さいとう もきち)の生まれた土地があります。金瓶(かなかめ)という集落です。2028年前期のNHK連続テレビ小説「ほんのモキチ」で、この茂吉さんと妻・輝子さん(てるこ)夫妻がモデルになると発表されました。この山形の、それも上山にゆかりの人が朝ドラの主人公になる。同じ上山に暮らす一人として、素直にうれしいニュースでした。
じつは小学生のころ、授業の一環で茂吉さんのことを調べて、まとめたことがあります。友だちと上山のあちこちを歩きまわって、金瓶の生家も見に行きました。いま思うと、なつかしい記憶です。
歌人であり、精神科医だった
茂吉さんは1882年、南村山郡金瓶村(現在の上山市金瓶)に生まれました。守谷家の三男で、東京の斎藤家に婿養子として入り、精神科医になります。青山脳病院の院長を務めた医師でした。
その一方で、伊藤左千夫に学び、短歌の雑誌「アララギ」の中心人物として活動しました。医師と歌人。この二つを生涯続けた人です。
『赤光』と「死にたまふ母」
1913年、第一歌集『赤光(しゃっこう)』を発表します。万葉集にならった素朴な調子に、激しい感情と鋭い感覚をのせた歌集で、大きな反響を呼びました。
なかでも、故郷で亡くなった母を詠んだ「死にたまふ母」の連作は、茂吉さんの代表作とされています。上山の土地と、母の死。個人的な悲しみが、日本の近代短歌を代表する作品になりました。

疎開の時期に生まれた歌
1933年、茂吉さんは銀座での事件をきっかけに妻・輝子さんと別居します。その後、1945年3月の東京大空襲の翌月、ふるさとの金瓶へ疎開しました。
翌年には最上川のほとりの大石田町へ移ります。都会を離れ、故郷の自然と人の情に包まれたこの時期に、茂吉さんは歌集『小園』『白き山』に結実する数多くの秀歌を詠みました。研究者のあいだでも、この疎開期は代表作の時期に数えられています。
そして疎開が、12年ぶりに輝子さんとの同居を再開させるきっかけにもなりました。1951年に文化勲章を受章し、1953年、70歳で亡くなっています。
土地と、歌と
都を離れ、故郷にいた時期に、数多くの歌が生まれた。茂吉さんのこの歩みは、山形で制作を続けているわたしにとって、静かな励ましです。
土地には、そこで暮らした人の表現を、後から支える力がある。斎藤茂吉記念館は上山市金瓶、生家の近くにあります。茂吉さんの遺墨や遺品を見られます。
Mermaid nao のオーダーアートでも、あなたが育った土地の風景や色を、一枚に含めることがあります。
【参考にした情報・引用元】
公益財団法人 斎藤茂吉記念館(茂吉略年譜)
ウィキペディア(斎藤茂吉さん)
日立ソリューションズ東日本(斎藤茂吉記念館と斎藤茂吉さん)
ふるさとやまがた発見ナビ(斎藤茂吉さん)
https://www.mokichi.or.jp/about-mokichi/rough-anniversary/
https://ja.wikipedia.org/wiki/斎藤茂吉さん
https://www.hitachi-solutions-east.co.jp/company/east-japan/history/saito/
https://kyodoai-yamagata.jp/saitomokichi/
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