鬱と摂食障害からの復活!死に損ないの私が生き辛さから抜け出した過程
私は長年摂食障害を経験しました。特に過食と過食嘔吐が酷かったです。(同時期に鬱病も発症)
異常な食欲、不安定なメンタルに苦しみ、もがき、生きる事がずっと辛かったです。自己否定と自己嫌悪を繰り返し、自分をコントロール出来ないから人間関係も上手く築けませんでした。過食衝動が止まらず食費も凄まじい金額になり、生活が破綻していく。やめたいのにやめられない。食べる事への異様なまでの執着心。そしてそんな自分のせいで家族をも巻き込み苦しめる。解決法が分からない日々が続き負のスパイラルから抜け出せない。私はどうして生きているのか、なぜ生まれてきたのか。死にたいのではなく消えたい。
不可能だと分かっていても、自分が生まれてきた事をこの世の全てから抹消したい毎日でした。
そんな私が、今では元気に笑っています。家庭崩壊寸前だった家族との関係も良好になり、大切な友達が出来て、旦那さんもいる。摂食障害だった頃の私には全く想像出来なかった、穏やかな日々を過ごしています。
ちょっと太めな体型にはまだコンプレックスがありますが、普段の暮らしの中に楽しみが沢山あり、とても嬉しく感じています。
1分1秒を生きる事が辛かったのに、1分1秒生きている事が楽しい現在。
摂食障害は、当事者でないとちょっと分かりにくい病気かもしれません。
切ったら血が出るように、目に見える症状でもなければ、傷口に絆創膏を貼れば血が止まるというような治療法でもないからです。
発症してしまう理由も、この病気の改善方法も人の数だけある。しかも1人1人、いくつかの理由を抱えている場合も多いのです。
だからこそ本人でさえ
  • 今自分に起きているこのおかしな症状は何なのか
  • 一体どうすれば治せるのか、または治せるものなのか
と困惑し
  • 自分のせいなのか?
  • 自分が弱いからこうなるのか
と自分を責め回復までの一筋の光を見つけるのに苦労するのではないかと思います。一番の味方になって欲しいはずの家族にも理解されず一人孤独に苦しむ。そんな、以前の私のような方が、世の中には結構いるのではと思うと胸が苦しくなります。
摂食障害を理解できない、家族の方もまた辛いでしょう。用意した食事を食べない、暴言を吐かれる。どんな言葉をかけたらいい?何をしてあげたらいい。何が正確で、どんな事がしていけない事なのか。摂食障害は、その家族にとってもとても苦しいものだと思います。
その摂食障害を経験した1人として、私が今までどんな風に克服してきたのか、その道のりとターニングポイントになったきっかけを記事にしてみました。
何かひとつでもヒントになり、お役に立てたらと思います。

Contents

プロローグ【15年間に及ぶ私の摂食障害】

私の摂食障害は、時期としてはダイエットに執着し始めた中学二年生(14歳)の頃から始まります。(同時期に鬱病気も発症。)特に酷かったのは18歳〜24歳の時で、ピーク時は体重が160cmの身長で80kgオーバーでした。そこからも、一般的な病気レベルの症状は26、7歳頃まで続きます。
その後はゆっくりと波を描きながら、少しずつ時間をかけて落ち着いてきました。30歳になった現在、食べ過ぎる事は多々ありますが、気持ちも安定しており病気のような症状は完治しています。

第一章【5歳児のコンプレックス】

〈幼い頃の記憶〉
保育園の年長さんの時期にはもう、人と比べて自分の体が太いのではないか?と気にするようになっていた記憶があります。
なので水着になることが恥ずかしくて、みんなとプールで遊ぶのを心の底から素直に楽しめた事はありませんでした。
目がぱっちりしていて顔が可愛い同級生に憧れると共に、自分の顔はそうではないと、気持ちを病む程ではなかったものの劣等感のようなコンプレックスを抱いていました。

写真:保育園に入る前の3歳の頃。父と母の第一子、初孫という事で4人の祖父母や親戚中に可愛がられ育ちます。

nao
体型は元々、特に太っていたわけではなかったのですよね。至って普通体型。なぜそう思ってしまっていたんだろうな〜。過去に戻れるならその小さな私をいっぱい抱きしめてあげたいです。
甘いものや好物は沢山ありましたが、食べ物に対し依存的症状はまだありませんでした。特に五目ご飯が大好きで、それが出るとお茶碗に山盛り2杯、3杯とお腹いっぱいに食べる事もありましたが、いつまでも食べ続ける事はありませんでした。お腹いっぱいに食べた事による罪悪感は無く、好きな物をいっぱい食べられたという幸福感で満たされていました。

nao幼少期
罪悪感 < 幸福感
食べ過ぎたからその後何日も食事を抜くなんて事もせず、自分の適量を考えるまでもなく摂取出来ていたと思います。
幼かったという事もあり、本能に従って食事が出来ていました。
美味しかった食べ物の記憶

保育園の庭で育てていたラディッシュを天気の良い日に収穫し、洗ってそのまま味噌をつけ生で食べたのがとても美味しく感動したのを覚えています。

他に、味噌だけ付けて生で食べた大根も美味しかったな〜

第二章【食で不調を起こす小学生】

父の仕事の都合で小学3年の夏に引っ越しをしました。それに伴い、のんびりした田舎の学校から、倍以上に人が多くて賑やかな学校に転校しました。ワクワクよりも友達と離れる寂しさ、不安、心細さでいっぱいだったような気がします。
すぐに仲良くしてくれるお友達に恵まれましたが、なかなか馴染めず戸惑う事も多かったです。
家庭環境は、それまでの核家族から、引っ越し後は父の両親である祖父母と一緒に暮らすようになりました。
近くに住む同い年のいとこ達と沢山遊べるようになったのは、とても嬉しかったです。
両親が仕事に出掛けて家にいない時間は祖父母が私や妹弟の面倒を見てくれました。
祖父母は私たち孫のことをとても可愛いがってくれ、お菓子や肉まん、しょっぱいお煎餅や饅頭やアーモンドチョコレートなど、食べ物を常に山ほど与えてくれました。白砂糖とサラダ油がたっぷりのパンの耳揚げパンもよく作ってくれました。時にはそれが大皿3枚分山盛りで出てくることもありました。
元々甘いものは好きでしたが、その頃から更に甘いものを食べるようになっていました。過食まではいかないものの、小学生が食べるお菓子の量としてはちょっと多すぎていたように思います。食べ過ぎて胸焼けや頭痛を起こし、気持ち悪くなる事もしょっちゅうでした。(でもその苦しみが何なのか分からず、時間が経つと平気になったので特に気にしていませんでした。)
当時を振り返り思う事
沢山の食べ物は、おじいちゃんおばあちゃんの愛情だったんですよね。
それに、同じ食べ物を食べていても妹や弟は私のように鬱病や摂食障害にはなりませんでした。妹弟とはいえ、ひとりひとり個性も嗜好も性質も性格も違いますしね。

 

大人になって分かった事
暴走した食欲を意思の力でやめることはとても難しく、不可能に近いです。
そして自分の気持ちが弱いわけでもないです。食欲が止まらなくなる食べ物は、だいたいが不自然な食べ物です。必要な栄養素が抜け落ち、かわりに人間の身体にとって麻薬となるような成分で主に構成されています。
脳が反応してしまうので、意思の力では敵いません。そして満腹中枢が狂い、結果食べ続けてしまうのです。
※例えば、
精製された塩と天然の塩では味も栄養素も全然違います。精製された塩は人体にとって依存性をもたらす事もあり栄養もほぼ無いのですが、天然の塩は必要な量を摂取したら自然と身体が欲しなくなります。何より自然の塩はウマイ!!そして栄養価も抜群に高い!!

ちなみにこちら私が愛用している大好きな塩。百目鬼(どめき)温泉の塩と粟国(あぐに)の塩。ミネラルたっぷり栄養抜群の最高にウマい塩!

トラベルjpさんのサイトより
沖縄ミネラル研究所公式HP
塩についてちょっと喋らせて!
栄養とパワーたっぷりの塩の本当の美味しさをぜひ体感してみて欲しいです!
百目鬼温泉の塩はご飯にかけたりゆで卵につけて食べたり。粟国の塩はみそ汁に入れたりもちろん料理に入れても抜群に美味しい!そして不思議なことに、ちょっと入れすぎたくらいじゃ全然しょっぱくならないのです。鋭いようなツンとした不快なしょっぱさが全然ない!初めて食べた時に衝撃を受けました。

第三章【むちゃ食い障害の中学生】

nao
前の章で塩について熱弁してしまいましたが話を戻します。
中学生になった私は人間関係に悩む様になり、両親とケンカや言い合いになる事も多く、楽しくも色々と難しい年頃でした。思春期真っ只中。
自分を責める事が趣味のようになったのも、更にコンプレックスを激しく抱き始めたのもこの頃から。
  • 幼い頃から周りの雰囲気や人の感情を敏感に感じ取ってしまう
  • 自分への劣等感とコンプレックス
  • 周りの目を必要以上に気にする
  • よく言えば真面目、悪く言えば愚直な性格
など。今で言う〈繊細さん〉とか〈HSP〉とかですね。そんな性質を元々持っていたのかもしれません。
失恋がきっかけで、鬱病を発症したのも中学生の時です。自宅に帰った夕方、横になってそのまま動けなくなってしまいました。それは鈍器のような物で頭を殴られ、胸をグサッと刺されたような、それまで感じた事のない鈍くて重苦しい感覚でした。
自分の身体と心に一体何が起こったのか分からず、とても戸惑った事を覚えています。
注※実際には誰にも殴られてませんよ。例え話です。
当時を振り返り思う事
私の場合、失恋は単なるきっかけに過ぎず、今までの小さなストレスが沢山積み重なってしまっていた故の鬱病の発症だった気がします。
日頃から様々なストレスが強かったのに対し、その解消方法を見つけられずに過ごした思春期でした。

nao
生きている以上何かを得たり失ったりを繰り返しますが、恋愛や人間関係での喪失感はなかなかの衝撃ですよね。

ダイエットの罠にハマっていく

自分への劣等感と体型コンプレックスが抜けない中学2年生の14歳。読んでいたティーン誌の裏に掲載されていた怪しげな「ダイエットサプリ」を購入し、結果→生理が止まります。(その後何年か止まっており、中・高生での生理の記憶がほぼありません。)
食べないダイエット、ひたすら何キロも走るダイエットなど、極端で危険、続かないダイエットもいくつか同時進行で行い始めます。
かと思いきや、相変わらず甘いものやお菓子を連日のように大量摂取する日々が続き、一度に食べる量も増えていきます。
受験の時にはお腹も空いていないのに夜食を食べるようになります
カップラーメンもよく食べており、多い時には一度に2、3個食べることもありました。
甘いものがやめられない事で親に注意されたり、怒られた記憶もあります。イライラや、ヒステリックな態度をとる事が多くなりました。精神面はいつもとても不安定でした。
当時を振り返り思う事
とにかく異常に食べていたので、〈むちゃ食い障害〉でした。
私は中学生で摂食障害を発症し始めた気がします。
ここから私はダイエットをしているのに食欲が止まらない、それだけでなく激太りするという謎のスパイラルへと突入していきます。

第四章【摂食障害になった高校生】

高校生の頃は心も身体も完全におかしくなり、自意識が欠落していました。それでも周りの人や学校生活に馴染み、普通に楽しみたかったけれど、いつも目の前の現実世界がどこか浮いているような感じがしました。性格もどんどん暗くなり、自分が思い描いていたような高校生活はあまり送れませんでした。
異常な食欲に支配されている自分が気持ち悪くてたまらなかったり、何故か急に泣きたくなったり。スーッと突然気が遠くなり、もう生きていけないと思う瞬間が沢山あって辛かったです。
自分を見失っていたし、自分の良いところをひとつも見つけてあげられなかった。
苦しい中でそれでも何とか生きていた自分を、少しも認めてあげることが出来ませんでした。
生きていて何が楽しいのか、分からなくなっていました。
ある日鏡を覗くと、そこにはゾッとするくらい目に光りが灯っていない自分がいてとてもびっくりしました。
無理やり作っていた笑顔はとても引きつったものでした。
笑うの疲れる。笑いたくない
ずっとそう思っていました。

制御できない食欲と精神からの支配

高校生になりお小遣いが貰えるようになったのですが、それは全て食べ物に消えました。
カラオケやバイキング、ファミレスやカフェにもよく行っており、食べ放題のアイスクリーム、飲み放題のジュースも沢山摂取しました。
その一方で、極端なダイエットや食事制限も相変わらず行っていました。
きちんとした食事は太るような気がして怖く食べられませんでした。「太る=醜い」
食に対して異常に神経質になっており、母がせっかく詰めてくれたお弁当に文句を言いイライラし、自分で中身を減らす事も日常茶飯事でした。母にきつい態度や言葉を沢山とってしまう事も沢山ありました。
まともな食事を取らないから身体が本当に必要としている栄養を補給できず、いつまで経っても満たされない。
飢餓感を感じた身体からのSOSは異常な食欲となり、四六時中食べ物の事が頭から離れない。
食べたら太る。太るは醜い。
食べ物への執着と葛藤が常に凄まじかったです。
当時の回想
食べたくなる物はいつも甘いものや極端にしょっぱいもの。お菓子や菓子パン、ジャンクフード。
一口食べれば、あればあるだけ食べ尽くす。
しかし食べた後は横にならないと辛いくらい胸焼けして気持ち悪くなり、頭も割れるほど痛む。でもその症状が少しおさまったらまた食べずにはいられなくなる、イライラする。
当時を振り返り思う事
知識不足と自分への自己肯定力不足による悪循環だったと思います。
鬱病、摂食障害、低血糖症、甲状腺異常、味覚障害に生理不順。不調のオンパレードでしたね。体重増加で体力はもちろん、記憶力や集中力もこの頃ガタッと落ちた気がします。脳の何かが壊れたような感じがしていました。
ふと
私のこの食欲はやっぱりおかしいのでは?
と思いネットで調べ、そこで初めて「むちゃ食い障害」「過食症」「摂食障害」という言葉を知りました。
でも
ああ、そうなのか
と分かるだけで、治し方までは辿り着かず。それだけではなく
こんな症状になるのは私が弱いせいだ、私が悪いんだ
と思っていました。
今のnaoだから言える事

nao
絶対そんな事ないですからね。辛かったら辛いのです。ちゃんと泣いて良いし、人に助けを求めても良いのです。(その人が自分の求めている対応をしてくれるかは分かりませんが、)自分が悪いからとか、ビョーキにそんなの無いですよ。

人の言葉に救われる体験をする

高校3年生の時、ふとしたきっかけで当時の担任の先生と2人でお話しする機会がありました。
意識が遠のく事があり何も楽しくない、何故か辛いという事を先生に話していたら、途中で身体が震え涙が出てきました。

M先生
そういえば肩がずっと上がりっぱなしじゃないか?力を抜いてリラックスしてみなよ
と指摘を受け肩の力を抜こうとしますが、その力の抜き方さえも分かりません。
自分がおかしいだけなのかもしれませんが‥」と話したら、

M先生
それ、自分がおかしいとかじゃないよ、
一回病院に行ったほうが良いやつじゃないか?
と私に言ってくださいました。
それ以降この件に関して先生とじっくりお話しをする機会はありませんでしたが、自分がおかしいのではないよと言われ、心がホッと救われたのを覚えています。
他にも、生徒会の時にお世話になった先生や部活の顧問だった先生が時折声を掛けてくださいました。私はそれがとても嬉しく有難かったです。
そんな先生方が大好きでした。
(今も大好きです。)

 

痩せ方も自分の心の取り戻し方も分からなくなっていました。

第五章【摂食障害のまま大人になった】

18歳初めての一人暮らしと就職

高校を卒業後は県外へ就職しました。
就職先の会社の寮で、初めての一人暮らしを経験します。初めは環境の変化に期待と好奇心を抱き、上手く生活していけると思っていました。しかし次第に気持ちの落ち込みが悪化し、朝起き上がれず会社を休む事が増えていきます。鬱病が酷くなっていきました。
当時の回想
気持ちを切り替える為に過食をしました。
ストレスを解消する為に過食をしました。スーパーやコンビニのハシゴは何件もするのがザラ。1回の買い物でお菓子やジャンクフードを5000円〜1万円分買うこともありました。食べ物がパンパンに詰まった一番大きなレジ袋3つ分を下げながら、情けない自分は通り魔に殺されたら良いのにと思いながら夜道を歩き泣きました。
夏休みになり実家に一時帰省しましたが、生きている事が辛く自殺を図り、その後精神病棟に入院します。
制御出来ない異常な精神と食欲は一人暮らしをしても治らず、1年も経たないうちに会社を辞めてしまいました。

 

繰り返す破綻と超リバウンドの20歳

精神病棟での入院生活を終え、少し回復した所でまた県外で就職します。心配した両親に反対されたような気もしますが、地元に残ることが考えられなかったからです。
しかしその生活も、すぐに鬱と摂食障害をぶり返し破綻。泣きながら電話をかけてきた私を、両親が深夜に4,5時間以上かけて車で迎えに来てくれました。
私は一体何をしているんだろう
ここから私の症状は更に悪化していく事になります。体重は80kgを超え激太り。
ストレスで声が出なくなり、体力が落ち過ぎて歩けなくなったり。数字が1から3までしか数えられず(次が分からなくなるのです)、やっと外出できた時もレジで財布の口を広げて店員さんにお金を取ってもらう始末。
日常生活が困難になるほど落ちぶれていきます。
当時の回想

nao
レジでお金の計算が出来ないのは少し恥ずかしかったので、〈私は日本語が分からない韓国人〉と一人激しく思い込み無言でサイフを広げていました。(韓国の人に失礼)
自動ドアに挟まれる経験も2、3度しました。ドアが私を認識せず、閉めてくるので挟まるのです。それもなかなか恥ずかしかったですが、それくらい生気が出ていなかったのかなと思います。
自宅では暴食が止まらず家計を圧迫します。一晩で家中の食べ物が無くなり冷蔵庫が空になるので、母は気が狂いそうだと毎日嘆いていました。
私の奇行や両親とのぶつかり合いも絶えず、朝から晩まで怒鳴り合いや騒音、叫び声でめちゃくちゃでした。家庭崩壊とはこの事かと思うような、地獄のような日々でした。

「ステップあやさん」との出会い

その頃、摂食障害に関する本を読み漁ったりネットで調べているうちに、ステップあやさんという方に辿り着きます。

 

あやさんのブログで、

摂食障害は食べて治す。摂食障害は治る病気!

だと教えてもらいました。

あやさんのブログに勇気をもらい励まされた私は、お米や野菜、お肉やお魚などのきちんとした食事を食べる事に挑戦していきます。

自分の身体の反応と照らし合わせ試行錯誤していく中で、
私の身体の反応は異常なんかじゃなかったんだ
と少しずつ自分の事を肯定出来るようになっていきます。
そのお陰で、私の異常な食欲は少しずつ落ち着いていきます。
当時の回想
お菓子コーナーを素通り出来た日にはとても感動しました。今まではそこを通ってしまうと、全て買わないと気が済まなかったからです。
あやさんに学んだこと

ざっくり説明すると、

  • 摂食障害は食べて治すということ

(まず身体の飢餓感をちゃんと満たす事)

  • 精製された砂糖には麻薬と同じ効果がある

(ノンカロリーの理由、不自然な食べ物)

  • 腸内環境の大切さ

(腸は第二の脳、幸せホルモンを感じる場所)

  • 睡眠の大切さ

(しっかり眠ることがいかに重要か)

  • 出来るだけ吐かないようにすること

(脳はだませないから吐いても食欲は止まらない)

 

 

あやさん自身も長年摂食障害の経験者でした。いくつか記事を読んでみると、そこには自分の身に起きたことがそのまま書かれていました。
私だけじゃなかった。同じような経験をして、乗り越えてきた人が実際にいるんだ。もしかしたら、私も自力で治せるのかもしれない。
出口のない暗闇の中をずっと彷徨ってきた私にとって、同じ病気を実際に経験し克服したあやさんの言葉や体験談は、心にスッと入ってきました。あやさんのブログは、私に生きる力を沢山くれました。

 

写真は顔も身体も人生で一番パンッパンだった頃。少しづつきちんとした食事に挑戦したり、父と一緒に夜散歩をして体力を戻そうと努力し始めたり。太りすぎて人目や外出も怖かったのですが地元のお祭りに出る事へ挑戦したりしました。(症状にもまだまだ波があり、家族との衝突は絶えませんでしたが、、)

 

第六章【県外で叔母と暮らす21歳】

社会生活からドロップアウトしていた21歳の頃、千葉に住んでいた叔母(祖母の妹)が

千葉おば
おばちゃん一人暮らしで寂しいし、とりあえず軽い気持ちで遊びに来なよ!社会復帰だと思ってオバチャン家からちょっとバイトしてみたら?
と声を掛けてくれ、そのお言葉に甘えて千葉に居候させてもらう事になりました。
当時の回想
実家では私がいつ社会復帰出来るのか不安な両親と喧嘩ばかりだったので、叔母の誘いはとても有り難いものでした。摂食障害や鬱の症状は少し和らいでいたものの、私はこの先の人生をどう生きていけば良いのか分からず途方に暮れていたからです。
叔母との生活で、お互いを思いやりながら暮らす事の大切さを教えてもらいました。
親戚というだけなのに、とても面倒を見てくれ愛情をかけてくれた叔母に、心の底から感謝しています。叔母が声を掛けてくれなかったら、間違いなく今の私はいなかったと思います。
8ヶ月間の千葉での居候生活の後、私はまた地元に戻ります。
当時の回想
ただ、少しずつ良くなってきているように思えた摂食障害は、居候生活中も不安定な波を相変わらず繰り返していました。
叔母はたくさん栄養のある食事を用意してくれ、私が休みの時にはカフェやレストランにも連れて行ってくれました。何不自由なく生活させてもらっていました。ですが吐きたい衝動や異常な食欲からは、まだ抜け出せずにいました。叔母に迷惑がかからないようお小遣いの範囲の中で食べ物を買い内緒で食べ、必死で食欲を抑えていました。痩せた身体への執着心も未だ強く、コンプレックスや劣等感も根強く持ち続けたままでした。

太る恐怖からの過食嘔吐

叔母との居候生活で社会復帰の練習をさせてもらい、
大丈夫。今度はしっかり生きていける
と少し自信をつけた私は、初めて地元で就職をする事になります。
しかし仕事や人間関係でのストレスが酷く、また過食を繰り返すようになりました。
止まらない過食から太る事への恐怖心が更に強くなり、
食べた分吐けば太らないじゃん
安易にそう考え吐く事を覚え、この頃から過食嘔吐をするようになりました。
でも、過食嘔吐をしても鬱や摂食障害、自分の仕事や人間関係での問題が良くなる事はありませんでした。

 

 

当時の回想

自分をコントロール出来ない病気から抜け出したと思ったら、また何度も何度も絶望に飲み込まれ真っ暗闇に落ちていく。死に損ないの自分と、自分らしく生きる事を諦めたくない自分。

身体が壊れ、心も壊れ、この世での自分の居場所も生きる意味も見つかりませんでした。

自分の存在が嫌い。醜い。気持ち悪い。
何で普通に出来ないの?
何で上手に生きられないの?
このまま私はずっとこんな馬鹿みたいに生きていくの?
なんで生まれてきたんだろうな
お母さんたちを苦しめる為じゃないのにな
私どうしてこうなっちゃったんだろう
いつから何を間違えた?

〈人生詰んでる〉
まさにそんな感じでした。命があって生きているのに、自分の未来が見えなかったです。

よく聴いていた楽曲

辛い毎日の中で、音楽は私のパワーの源であり精神の鎮痛剤のような存在でした。

 

  • 加賀谷はつみさんの「会いたいよ」

はつみさんの繊細な歌声が心にとても沁み渡り癒されていました!

  • Melody.さんの「遥花~はるか~」

    気まぐれに変わりゆく時代の中で 笑顔まで上手にならないで どんな姿も 間違いじゃないから もっと涙 流していいよ

     の歌詞に何度救われたか
    • Hilcrhymeさんの「大丈夫」

    俺が「大丈夫」って言えば君はきっと大丈夫で もし世界中が君の否定をしても 俺が「大丈夫」って言えば君はきっと大丈夫で 俺だけが世界中の否定をしていよう

    という「俺が大丈夫って言えば世界がナント言おうともお前は120%大丈夫なんだぜー!オラオラ」な歌詞にもおお!「俺」さんを今すぐ私にチョーダイと80kgの大女は枕で大粒の涙を流してときめいていましたよ

    当時:歌詞が好きすぎて歌詞をバックに絵を描きました。

    ちなみに私の夫はオラオラとは真逆のタイプです。

    • 今井 美樹さんの「PIECE OF MY WISH」では
    ああ今日もまた目覚めてしまった生きている
      と後悔する朝の寝起きの瞬間がちょっぴり楽になりました
    • 木村弓さんの「いのちの名前」
    ジブリ映画「千と千尋の神隠し」の劇中に流れるミュージックなのですがこの歌詞付きバージョンも本当に最高です!ノスタルジックな感情になるのですが、聴くたびに自分の傷がスーッと癒えていくような。とても美しいメロディーです。

    23歳 命と向き合う常識嫌い

    その頃、どうしても気になる舞台があり東京の恵比寿へ1人で観劇しに行きます。
    余裕を持って間に合うようにと夜行バスで向かったものの、お昼からの上演時間まではだいぶ時間があったので早朝の街を散々しました。
    「姓名判断」
    路地裏のアパートの前に看板を見つけ、思わず引き込まれ階段を登り指定された部屋の前まで行くと、一瞬迷いましたが興味本位でチャイムを鳴らしました。
    その時、朝の7時半。
    迷惑がられたら謝ろう。居なかったらすぐ帰ろう。
    ですが中から白髪のおばあちゃんが現れ、快く部屋へ入れてくれました。
    早速おばあちゃんに名前を診てもらうと

    白髪婆
    このままではあなたまた自殺するよ
    と言われました。
    私が自殺未遂をした事は伝えていないに、なんで分かるの?
    とドキッとしました。
    どうすれば闇へ引き込まれず人生を生きていけるのかを聞いたら、新しい名前を持つ事もひとつの手だと言われました。
    新しい名前?どういう事?
    それを名乗るの?親は?仕事は?
    それで世の中どう生きていくの?
    他人の目もあるし‥
    全く予想していなかった出来事と選択肢が目の前に現れ困惑している私に、おばあちゃんは

    白髪婆
    あなたの人生は誰のものなの?親のもの?
    違うでしょ?
    自分の命でしょ!自分の人生でしょ!自分で決めて自分で舵を取り生きていくのよ!
    と言いました。
    幼い頃から大人の言う”世間の常識や普通”が分からないと思いつつも、
    摂食障害で普通ではない自分を責めるばかりだった私はその言葉にハッとします。
    新たな名前を自分に授ける事。それは初めて、私の命は私のものだと、自分自身と真正面から向き合った出来事でもありました。
    その後おばあちゃんに新しい名前をつけてもらうのですが、一般的人である私が、ある日突然名前を変えて世の中を生きていくと家族や親戚、友人など周りの人全てに宣言したのはこの出来事があったからです(プロフィール参照)

    ちなみに、調べたら戸籍上から姓名を変える事は余程の理由が認められない限り不可能らしく、していませんでした。(親がつけたあまりにもヤバ過ぎるキラキラネームとか)

    それでも、これからは新しく決めた名前で生きていこうとしていました。
    名前の件では、「理解が出来ない」という罵倒やお説教も沢山受けました。離れていった友達もいました。しかしその中でも温かいメッセージをくれた人もいて、その時の有り難みは一生忘れません。そのメッセージを見て携帯を抱きしめ泣きました。携帯に向かってありがとうを沢山言いました。
    当時を振り返り思う事

    側から見たら非常識で考え無しという行動でしたが、それくらい当時の私は生き直しをする事に覚悟を決めていました。なので名前の件では後悔はしていません

    ただ、今思うと私はすごく極端なやり方をしたなー!SNSアカウントを作ってその場でやりたいようにその名前で生きるとかもアリだったなー!などと色々思う所もありますが、、それくらい、とても切羽詰まって生きていたんですよね。

     

    「常識」が嫌いな訳を解説

    常識と言う言葉が嫌いというか、正確にはその言葉を使って人を抑制しようとする人が嫌いです。

    いかにもそれらしい言葉を武器にし人の上に立とうとしたり人を抑制しようとするそのマウント精神が息苦しく感じてしまいます。
    「常識」とさえ言ってしまえば自分を賢く見せるのは簡単だし他人に説明したり諭すという自分の手間が省けるじゃないですか。その卑劣さが嫌なのです。
    もちろん、人を不快にしないマナーという意味での常識は必要だし理解もしています。
    ですが全てを簡単に一括りにして人を縛りつけようとする悪意からの「常識」というワードと精神が、私は大嫌いです。

     

    第七章【宮古島での移住生活】

    新しい名前を授かる体験をしたあと、ある日ふと頭の中に波の音と海の景色が現れます。
    今すぐここに行かなければ!
    何か海に呼ばれてる気がする
    、、宮古島?テレビで聞いた事あるな、
    私ここに行かなきゃいけない気がする
    沖縄県なんてそんな遠くに行った事は無いのに、ましてや飛行機のチケットも自分1人で取った事がなかったのに。
    なぜか行かずにはいられませんでした。
    宮古島が離島だという事も、出発の直前に知ったくらいです。
    前職を辞め、宮古島での働き先と住む場所を決め実際に飛行機で宮古島に降り立つのに、2週間程しかかかりませんでした。
    生まれて初めての大冒険のような移住でした。それが24歳くらいの時です。

    自分の全てを捨てて、何もかもリセットしたい気持ちでした。

     

    初めての島での暮らし

    島に向かう道中、
    これから自分はどうなるんだろう。
    新しい名前を胸に持ち、作り物のような「強さ」を被りながらも、不安と心細さでいっぱいでした。
    でも、初めて上空から見た沖縄の海は本当に綺麗で美しくて。見た事がないその景色に、心がキラキラと反応するのが分かりました。
    そして、車の窓から眺めた宮古島の風景や町並みはどこか懐かしくて、初めて来た場所とは思えないくらいほっとしたのを覚えています。
    私は多分、ここに来て良かったんだ、、
    のどかでのんびりした雰囲気が、幼い頃暮らしていた大好きな町と重なりました。
    初めて宮古島の海に潜った時は、「海ウマッ(美味)!!なにこれ食える!!」とびっくりしました。笑
    ちなみに、移住前に授かった新たな名前は、宮古島生活を始めた時から名乗って生活していました。
    (勤務先のオーナーと店長、経理のお姉さんにだけ、手続きの関係で戸籍上の名前を伝えていました。私の勝手を許してくださり、オーナーと店長、経理のお姉さんには本当に感謝しています。)

    nao
    後日談:
    のちに自分の存在を受け入れていけるようになった時、戸籍上の名前をだんだんとバラしていきます。

    幸福の女神が現れた!M先輩

    宮古島へ来島初日、必要な物の買い物中に1人の女性にいきなり声を掛けられます。
    しまむらの店内で

    ??
    アー!!!!履歴書で見たことあるー!!!いつから来るの?いつ?名前は?
    ととても明るく声を掛けてくれたその人は、これから勤務する居酒屋の先輩スタッフさんでした。

    M先輩
    私も同じ職場だよー!
    初めての土地で見知らぬ人に突然呼び止められ、とてもびっくりしました。
    心臓バクバク
    万引きGメンかと思った..
    (万引きしてないけど)
    しかしその先輩と出会った瞬間に、
    これからの島での生活、多分やっていけそう‥
    と心に希望が宿りました。
    今でも仲良くしてくれるその先輩は、その時から私の幸福の女神です。

    宮古島にいた時にM先輩をイメージして書いた絵

    p.s.
    後日頂いた手紙です。笑

     

    Mさんいつもありがとうございます。(*´ω`*)

     

     

    宮古島での居酒屋仕事

    鬱や過食で心も身体もまだボロボロだった私でしたが、
    ここでしがみつかなければ生きていけない。あとが無い
    と思って必死で仕事を覚えました。
    ですが記憶力や脳の働きが凄まじく低下していたので、最初の頃は店長や周りのスタッフにとても迷惑をかけていました。
    それでも私を見捨てず辛抱強く面倒を見てくださった事、今でも感謝しきれません。
    この経験で、初めての職種でもやれば何とか出来るようになると自信を持つ事が出来ました。

    あんぱんで味覚を取り戻す​

    宮古島にいた時も、摂食障害は続いていました。
    当時の回想
    摂食障害になって、ありとあらゆる食べ物を口に入れて身体に詰め込む。もう何でも良かった。何でもオイシかった。身体に詰められるなら何でも良かった。
    詰めるだけ詰め込んだら、あとは吐くだけだ。またオイシイを味わえる。私は何でも食べ尽くす。その繰り返し。でも何かが埋まらない。
    それでだんだん気付いてくる。

    私はいつから「美味しい」が分からなくなった?
    小さい頃は「美味しい」が分かっていたはずだった。どんなに美味しくても、限りなく食べ続けることもなかった。ある程度食べたら幸せで、満たされていた。
    なのにどうして、今の私はどれだけ食べても満たされないんだろう。いつからこんなに、食べ物の味が分からなくなったんだろう。
    自分の食欲が分からなくなったんだろう。
    摂食障害になってから、そんな想いをずっと抱いていました。
    そんな時にようやく、私はまた「美味しい」食べ物に巡り会います。
    それが、モジャのパン屋のあんぱんでした。
    住んでいた場所の近くにあり気になっていましたが、いつもすぐ売り切れてしまうのでなかなか買えませんでした。でもある日の朝、ようやくあんぱんを買う事が出来ました。
    受け取ったあんぱんは出来立てで温かく、とても美味しそうな良い香りがしました。
    しかし用事があったので、そのあんぱんはすぐに食べられずカバンにしまい夕方になりました
    すっかり冷めてしまったあんぱんを見て、
    まあ、いいか。私どうせ吐くし。
    と思いながら食べ始めた瞬間です。
    私はびっっっっくりしました。
    目玉が飛び出るかと思いました。
    すっっっっっっっごく美味しかったのです。
    今まで食べたことがないような味でした。
    それはとんでもなく美味しかったです。
    機械で大量生産されている、コンビニのあんパンとは全然違いました。(コンビニのあんパンも好きですが)
    そのあんパンの美味しさに、私は涙が出そうでした。
    私美味しいものが分かる!!これ絶対美味しい!!これが「美味しい」ものだ、、
    何このあんパン?!生きてるみたいだ!
    そう思いました。
    あんパンを食べ終わった後日、何かの本かパンフレットで、そのお店の想いが書かれた文章を読みました。
    ひとつのあんパンを作るのに、とてもこだわりを持って作っている事を知りました。
    作り手の想いが食べ物に反映される「美味しさ」を、そのあんパンから教えてもらった出来事でした。

    強制連行が得意な友人A

    宮古島ではとても人に恵まれました。
    私が摂食障害や鬱を克服し、今こうして元気でいられるのも宮古島で出会った友人のお陰です。
    来島初日の夕方、ふらっと入ったお店の気さくなスタッフSちゃんと友達になります。その晩から、Sちゃん行きつけのお店に一緒に行った事で私も常連になり、行く度に誰かと芋づる式で友達になり、島での知り合いを増やしていきます。

    nao
    宮古島は狭いので友人ネットワークが強めです。気付いたらみんなトモダチ‥
    のちに私の結婚式の友人代表スピーチを引き受けてくれた大親友のAともそこで出会います。

    A
    初めて会った時にさあ、この子ほっといたら死んじゃう!と思ってナンパしたんだよね〜アハハ!
    と底無しに明るく豪快な性格のAは、マイナスだらけだった私の人生を一瞬にして照らした太陽でした。とにかく明るくて、歩くポジティブのようなAに、人生の楽しみ方と友達がいる楽しさを沢山教えてもらいました。
    ずっと笑顔が引きつり笑う事がしんどかったのですが、何でもガハハと大笑いするAにつられて、いつの間にか自然と笑えるようになっていきました。
    私があれ食べたいこれ食べたいと言うと

    A
    いいよ!全部食べちゃおうぜ!
    ウ~マい~♪キャッハー!
    と何でも一緒に食べてくれたAと過ごす時間によって、食べる事に対して恐怖と罪悪感まみれだった私の感情も、少しずつ薄れて楽になっていきました。
    数年後の後日談
    ですが当時の量はやはり凄まじかったらしく、数年後Aに「あの時マジ食べ過ぎてヤバかったからね!笑」「〈こいつどんだけ食うんだ!笑〉と思ってたからね!」と笑いながら言われました。異常な食欲を一切否定せず一緒に楽しもうとしてくれていたAには本当に頭が上がりません。

     

    Aの職場の七夕の飾り作りに駆り出され、イヤイヤながらも星を大量に作る手伝いをしたのも良い思い出です。
    「あの時嫌がってたでしょ?笑」と今でもAによく言われます。笑
    宮古島では、大切な友人が沢山出来ました。SちゃんやA、勤務先で出会ったM先輩や共通の知り合いを通して偶然出会ったYさん。
    勤務先で出会った方々はもちろん、Sちゃんの行きつけのお店で出会った方々。
    (名前を挙げるとアルファベットだらけになるので、大変心苦しいのですがお名前は割愛させて頂きます。)
    Ayちゃんが握ってくれたおにぎりも本当に美味しかったです。
    摂食障害で太り写真を撮ることが凄く苦手だったのですが、明るいみんなと一緒に過ごすうちに少しずつ平気になっていきました。自分が自然に笑えている事にびっくりしましたが、とても嬉しかったのを覚えています。

    YさんとMnさんからのメッセージ

    宮古島で出会ったYさんに、こんなメッセージを貰った事がありました。
    (Yさんは福岡のご出身なのですが、旅行でたまたま宮古島に来ていたそうです。)

    麗加ちゃん
    また宮古島いくね!
    絵みたいな。
    わたしの周りの人たち
    麗加ちゃんの絵みて凄いって言ってたよ(*^^*)

    あと、もしできることなら
    朝一番先に食べるものをフルーツにして
    お水を常温でたくさんとると良いかも。
    ブログみて、ちょっと気になって↑を伝えようと思ったけど
    もういろいろやっていたらごめんね。

    食については
    お勉強してるから
    もし参考になるならと思って。

    ブログ色んなエネルギーを感じました(*^^*)
    わたしも麗加ちゃんくらいひらけば良いなぁ、、、
    もうちょっとかなぁ、、、
    私も行き急いできた人なので、焦らず自分を許していこうと思います

    麗加ちゃんの言葉も絵も
    とっても響きます。
    麗加ちゃんがどんなに汚い言葉で綴っていても
    それはあなたの純度の高さがそうさせているだけで
    あなたは愛で守られていて
    どこにも冷たさもダークもないです。

    ただ、コントロールが今は難しいだけで
    きっとすべてがうまくいきます。
    私が感じることは
    こんなことです。
    偉そうに、ごめんなさい。
    でも、麗加ちゃんのその光そのものは
    キラキラ黄色い明るい色なの。
    眩しすぎて
    自分で自分を見失うだけだと思うの
    誰も自分のことは一番わからなくなるもので
    私も分かってないし(笑)
    だから麗加ちゃんが描いてくれた絵もメッセージも
    私に必要な宝物になりました。
    ありがとう。

    2015年6月22日に頂いたメッセージ
    当時私は少しアメブロをやっていた期間がありました。
    のちにYさんは、
    Yさんの食に関する教え
    自分の主成分を何にするか凄く気をつけたほうが良いよ。
    食べ物=自分
    プラスチックやコンビニ、大量生産されたものばかりを食べていたら、替えが利く人間になっちゃう。愛情と時間をかけて作った食べ物、そういうエネルギーで自分を満たし、大切にしてね。
    いかに手間をかけた食べ物を食べるか。
    不自然に加工していない、ちゃんと腐る食べ物を食べなさい。
    という事も教えてくれました。

    Yさんから初めてメッセージを頂いた時は、

    たった1回少しだけ会っただけなのに、どうしてこんなに気にかけてくれるんだろう。
    と驚きと有難さで胸がいっぱいになりました。
    宮古島で出会った方々に、私はずっと欲しかった愛情を沢山与えてもらっていました。
    まだ自己否定が強くオドオドして暗かった私でしたが、誰一人として私を否定したり非難する人はおらず、みんないつも温かく、とても優しかったです。
    誰かと一緒にいる時間が、こんなに楽しくて幸せな時間だなんて思いませんでした。
    忘れていただけかな?
    私がおかしくなる前の幼い頃は、こんな時間もあったのかな。

    と時折ふと思っていました。

    その時に酔いながら自撮りしたのが、アイキャッチにも使用したこの写真です。

     

    体重は60kg以上あったはずですがカメラを超上にして顎を引いたのでシュッとして見えます。
    今までの人生は失敗ばかりだったけど、みんなと出会えた事が私の唯一の成功だな。
    私の人生の宝物だな。みんなと出会えた自分は、なんて幸運なんだろうな。
    しかし宮古島でも摂食障害は良くならず、食費の出費で生活がまた困難になり1年7ヶ月に及ぶ島での移住生活は幕を下ろしたのでした。
    ですが宮古島に行った事で、これまでの私からは考えられない程生きる気力を取り戻していました。
    宮古島の自然と出会ったみんなのお陰で、空っぽだった心の中に、じんわりと感情が戻ってくる感覚がありました。
    まだ私は不完全だけど、みんなと出会えたからこれからも大丈夫。何とかなる。
    宮古島での経験が、私の心をとても丈夫にしてくれました。
    宮古島を出る時、32kgの荷物が入ったスーツケースはたったの9kgになっていました。
    あれほど「死にたい」「消えたい」としか思えなかった心は、「もう少し生きてみようか」と自ら死を願う事もなくなっていました。
    Mnさんにもこんなメッセージを貰います。

    なかなか言いにくい心の奥の話を私にしてくれてありがとう*

    れいちゃんのなかで、何か変わるキッカケとご縁を引き寄せた場所が宮古島だったんだね*
    私自身何かれいちゃんにしてあげていたかと言われたらピンとこないけど、れいちゃんが幸せだって思える場所に一緒にいれたことすごく嬉しいよ♡

    人見知りな私だから仲良くなるのに時間がかかっちゃったけど、私もれいちゃんに会えて仲良くなれてよかったって思ってます^^

    大事なぷちの仲間だよ♡♡
    そして私のことをこんなに大事に想ってくれててありがとう*読んでいて心がじんわり温かくなったよ**

    つい昨日ね、雅歌小屋で「自分のなかに何人もの人格をもて」って話をされたの。不器用にひとりの人格で生きるよりも、器用にたくさんの人格で生きたほうがいいって。この世の正直に生きているほど厳しかったりするから、自分に都合よく器用に生きるべきと

    話微妙にズレてるけどなるほどなぁと思った
    そのタイミングでれいちゃんの話

    不思議な気持ちになった

    れいちゃんがほんとは直子ちゃんだってこと、きもちわるいだなんて思わない*
    たくさんの辛いことや大変なことを乗り越えて今のれいちゃんになれたんだろうし、直子ちゃんって存在があったからこそ宮古に来る縁があって今があるんだろうなと思うから

    そんな簡単にまとめて言えるようなことじゃないだろうから、こうやって安易に受け止めてるのすごく申し訳ないけど。

    れいちゃんはとてもキラキラした笑顔を持っていて
    歌声も心のなかから出る透き通った綺麗さがあってそしてれいちゃん自身のなかにある不思議な世界観がすごく魅力に感じたよ*

    素敵な子だなぁと思った

    幸せを感じることができたのも
    れいちゃん自身の魅力で引き寄せたものだはず*

    そんなれいちゃんだからきっと”直子ちゃん”のことも、ゆっくり時間をかけていったら好きになっていけるんだと思う*☆

    距離は離れているけどね
    この時代文明の機器でこれだけ繋がっていられてるから

    辛いことや悲しいことだけじゃなくて、嬉しいことや楽しいことがあったら

    いつでも連絡しておいでね♡

    ぜんぶ受け止めるよ

    Mnさんからのメッセージ

    第八章【症状に対する気持ちの変化】

    鬱病や摂食障害になり自分を見失い、暗い闇のような時間を生きながら死んだように過ごしてきた数年間
    そして苦悩ばかりの生に対する突破口を開く為に名前を変える決断をし、移住した島ではその名前を使い過ごしていました。
    そこでの生活で随分と落ち着きを取り戻した私でしたが、摂食障害はまだ酷く、実家のある山形に4回目の帰郷をします。
    しかし、その頃には自分の摂食障害に対する受け止め方が変化しており、過食や過食嘔吐をしてしまっても
    ちょっとストレスがかかりすぎたんだな。大丈夫、仕方ない。またここから切り替えられる。
    過食嘔吐は私を守っている症状なんだな、一種のストレス解消なんだな
    と思えるようになっていました。
    過食をする度に〈また食べ物を無駄にした〉〈またお金をドブに捨てた〉と考え自分を責め続けていた私にとって、それはとても大きな進歩でした。
    それからの私は、症状の波を何度も繰り返しながらも、自分の中にある思いとひとつずつ丁寧に向き合っていく時間を過ごします。
    そのうちに、自分の存在を認める事が少しずつ出来るようになっていきました。

    自分の事を自分で否定しない。卑下しない。心を傷つける自傷行為をしない。

    小さな事でも自分を褒める。
    過食嘔吐をしても、吐くまで頑張った自分をまずは認める。責めるのでは無く受け止める。

    ネガティブな私がひょこっと出てきて闇に引き込まれそうになった時は、いつも宮古島の友人の事を思い出しました。
    私は島であれだけ頑張れたんだから大丈夫。私はあんなに素晴らしい人たちと出会えたんだから大丈夫!!
    宮古島で出会えた人の存在が、私の心の拠り所でした。

    息苦しい自分からの解放

    地元に帰郷した私は、納得出来ないながらも戸籍上の名前で就職、生活していました。
    • ようやく自分らしく生き始めた私と
    • モヤモヤしながらも社会と折り合いをつけて上手く生きようとしている私。
    私の中には常にその2つの感覚が対立していました。
    2つの名前を持ち、2つの人生を生きてみた私。
    だからなのか、どこか分離しているような感覚。
    本当の私はどこにいるんだろう。
    でもそれは、当時の彼氏に「なお」と呼ばれた事であっという間に解決しました。
    エ?
    そんな事で?
    と思いますよね。
    でもそんな単純な事で、一気に吹き飛んだんですよね。
    どちらの私も本当の私だからこれで良いや!
    宮古島生活のお陰か、私の心は随分と元気に図太くなっていたようです。
    「なお」と呼ばれる嬉しさと心地良さ。
    それはこの恋愛で得た宝物でした。

    地元での美味しさ体験

    宮古島ではモジャのパン屋のあんぱんで食べ物の美味しさに感動し励まされた私でしたが、地元山形でも食べ物による感動体験をいくつか経験することが出来ました!その美味しさは私に自分の味覚を信じる心を取り戻させてくれました。出会えたことに、本当に感謝しています。
    • 上杉神社付近ファミリーマートの目の前にあったお肉屋さん
    肝心な店名を忘れてしまい大変申し訳ないのですが、お肉屋さんが米沢牛のステーキや美味しいお肉の定食やハンバーグなどを提供しているお店でした。私は何かの定食をオーダーしたのですが、付け合わせでトッピングされていた自家製野菜がとっても美味しくてびっくりしました。特にタマネギがすっごく甘くて、バクバクとあっという間に食べていました。
    野菜が生きている!
    と思うくらいのエネルギーをその野菜から感じました。
    • 山形市五十鈴にあるカフェ カシェルポポさん
    ランチやディナー、お菓子にケーキなんでもある!私にとって夢のようなカフェです。ランチでお邪魔した時に食べた自家製野菜が特に美味しかったです。
    一口で
    ほかのお店とは違う!美味しい!
    と野菜に夢中になった記憶があります。ハンバーグももちろん美味しかったのですが、付け合わせの野菜がメインのハンバーグに負けないくらい主張しているようなフレッシュで爽やかな美味しさでした。
    のちに夫と付き合い初めてデートしたのもこのお店です。
    • 山形市鈴川にあるお菓子屋さん パティスリー菓樹さん
    お菓子の味はもちろんですが、素敵なスタッフさんのひそかなファン、、大ファンです。一押しは、全商品全てなのですが(全部好き過ぎて選べない)、沖縄から長期移住を終えて久しぶりに山形に戻りここのクレープを食べた時に、そのあまりにも優しくてほっとする味にウルっと泣きそうになりました。とても心が込められていて優しいパワーを持つお菓子です。大切な人に贈り物をする時にもお世話になっています。
    美味しい食べ物のお陰で、食べ物からエネルギーをいただくという意味が分かったような気がしました。

    現在の夫との出会う

    摂食障害もまあまあ落ち着き
    いくつかの春が終わりいきなり冬ー!
    氷河期ー!末期ー!凍るー!とだらだら独身を謳歌していた私ですが、母に勧められ半ば強制的にお見合いセンターに入会します。
    結婚をする事にはピンと来ていなかったのですが、昔からの持病である実家を出たい病が再発し、それなら結婚もアリかー!と安易に考えていました。(最低)
    ただ、穏やかに安心して暮らせる居場所がずっと欲しかったです。
    そんな時に出会ったのが今の夫です。
    付き合う寸前で私がメンヘラを発揮しビビった彼は一度私から逃げ出すのですが、不思議なご縁は切れる事なく繋がったまま、6ヵ月でのスピード婚を果たします。
    夫は自分を大切にする事が当たり前に出来ており、社会的にも精神的にも自立したとても立派な人でした。(です)
    とても優しく、私が困った時にはしっかりと話しをしてくれる人です。笑い上戸でとても面白い人でもあります。
    その夫のお陰で、私はますます元気を取り戻し、イキイキするようになりました。(今の私の完成です)

    出会った頃は大人しかったのに、、
    クーリングオフ、まだ効く?
    実家に返品して良い?
    とよく言われるのですが、返されたくありません。
    一緒に笑い、(笑われ)たくさんハグをしてくれる(棒のように突っ立たれる)人が毎日そばにいるのは、とても嬉しいです。
    楽しい生活の中で、私の摂食障害はまた更に影を薄くしていきます。
    今までを振り返り思う事
    毎日何回もしていた過食嘔吐が一日数回になり、そのうち一日一回になり。期間が空くようになり、何日かに一回になり。
    それが数ヶ月に何回かになり、もっと減って数ヶ月に2、3度になり。それからはストレスがかかり過ぎた時や、嘔吐まではいかず食べ過ぎるくらいに。長い時間をかけながら、私の摂食障害は緩やかに治ってきました。ここまでの道のりは本当に辛いものでしたが、環境の変化と人との出会いのお陰で、私は毎日を楽しく過ごせるようになりました。

    変化する家族への想いと関係

    夫と過ごしているうちに心に余裕が生まれ、ぎくしゃくしていた家族との関係も次第に良好になっていきました。
    少し離れた場所から考える事で、
    家族は私のことを全然分かってくれない!理解していない!
    と思って閉ざしていた心も、
    私の望む形ややり方ではなかったかもしれないけれど、家族はいつも私のことを想ってくれていた
    と考えられるようになりました。
    数年もの長い間、家族にはとてつもない苦労をかけ大変な思いばかりをさせてしまいましたが、ずっと支え続けてくれた事に心から感謝しています。

    私が結婚し式も挙げるなんて数年前にはとても想像出来なかったことです。

    第九章【万年ダイエッターの記録】

    摂食障害の症状が落ち着いても体型コンプレックスが楽になる訳でなく、ずっと万年ダイエッターでした。
    せっかく摂食障害を克服したと思ったのに、無理なダイエットをしたせいで食欲がまた暴走し、自己嫌悪に陥る事もよくありました。
    そんな私でも、今では食にコントロールされず快適な食生活を送っています。(嫌になる位に数え切れない程の失敗を重ねました。)

    食での自分の快と不快

    以前の私は甘いものやスナック菓子が辞められず苦労していましたが、食べた時の身体の反応が快か不快か。それを見極める事で自然と量を減らしていけました。
    (もちろん、お米や野菜、お肉やお魚などの食事できちんとした栄養を摂る土台があってこそですが)
    意思の力ではなく、自然と必要としなくなったという感じです。
    甘いものを食べると身体が冷えるなぁ、お腹が張るなぁ、浮腫むなぁ
    という身体の反応が不快になり。機械で大量生産された添加物たっぷりのスイーツやスナック菓子も、食べた時に感じる後味が化学食品のようで苦くてマズく不快で
    私の場合は他に
    手に水疱の様なぶつぶつが出る、身体が痒くなる(全身、陰部、額、手、首)、あかぎれ、皮膚赤くなる、肌くすむ、顔老ける、肌のトーンがくすむ、顔浮腫む、顔にもブツブツでる、肌乾燥する、口内炎できる、なんか体が膨らむ、胃は詰まる、便秘になる、アイスも体が冷えて便秘になる、食欲が狂いやすくなる
    何日かお菓子や加工食品を辞めてみた時の、不快を回避した身体の楽さがたまりませんでした。
    甘いものは食べたら太る〜」じゃなくて正確に言うと甘いものは食べたら浮腫む」んですよね。水分と結びつくし人工的な甘いものや加工食品は消化に時間と負担がかかるから。臓器の働きが鈍くなるんですよ。そして身体も冷える。結果便秘にも繋がります。

    情報過多な現代での健康とは?

    バランスの良い食事を心掛ける事で自分の快と不快を知り暴走する食欲をゆっくりと克服してきた私ですが、身体が不快になることが分かっていても食べる事はありますよ。

    nao
    食べたいと思ったら食べたいです。そしてこれからも食べたい物は食べると思います。
    楽しんで食べる事は何よりの心の栄養になるし、この世に生まれた特権だと考えているからです。
    私は食べる事を思う存分に楽しみます。
    心を窮屈にしないで、ただ選ぶだけ。
    自分が本当に欲しているものを、自分の本能で選ぶ。そしたら絶対に楽しいし、幸せじゃないですか。気をつけるのは食べ物に食べられない事
    自分が選んで食べているという意識を持ち、脳がコントロールされない食べ方をする事。
    知人のおばちゃんが言っていました。

    おば
    健康ってね、色々気にしすぎないで身体をとにかく冷やさないことよ。それだけで良いの。
    太陽の塔で有名な芸術家、岡本太郎もこんな言葉を言っていたようです。

    たろう
    健康法なんか考えないことが、いちばんの健康法だ。

    私が一番伝えたいこと

    制御できない食欲は、もしかしたら心の訴えかもしれないし、睡眠不足かもしれないし、
    自分が食べている食べ物がオカシイ食べ物なだけなのかもしれないし。
    あとは身体にとって本当に必要な栄養が満たされていなくて、過去の私のように飢餓感からくる異常な食欲という可能性も。
    異常な食欲に支配される自分を責める前に、まずは一息深呼吸をしてみましょう。
    自分を責めなくても大丈夫。
    責めても解決しないのです。
    そしてあなたは全然おかしくない。
    自分に鈍くならないで。
    自分にとって
    優しい時間を沢山確保してください。
    食べる事で必要以上に自分を責めて苦しむ人が増えませんように。
    それが、この記事を書こうと思った私の一番の想いです。
    また、摂食障害の家族を持つご家族の方々もご自分の事を必要以上に責める事がありませんように。
    摂食障害になる原因は、親子関係が引き金になると言われることもありますが、必ずしもそれだけが原因ではないはずです。環境、性格、きっかけ、小さな出来事から大きな出来事、傷ついた経験の蓄積やコンプレックス、ストレスなど本当に人それぞれ様々です。
    色々な原因があるかとは思いますが、当事者含めご自身の事も決して責めないでくださいね。
    家族も、ひとりの人間です。
    どんな姿も感情も、間違っていないです。
    そしてどんな形の愛情でも、いつもしっかり届いていると思います。
    何も出来なくなったときは、無理をなさらないでくださいね。

    エピローグ

    とても長い記事になりましたが、最後まで読んでくださりありがとうございます。
    この内容はあくまでも私個人の体験談や考えなので、合わない、分からないと思ったらスルーしてくださいね。
    でも、なにか少しでもヒントになれば、それほど嬉しいことはございません。
    あなたが出会うべき人に出会えますように。
    そして本当に美味しい食べ物に出会えますように。
    読んでくださった方へ。
    微力ながら、私からこの2つのメッセージを送らせていただきます。
    以上、私の摂食障害体験談でした!
    読んでくださりありがとうございます!
    p.s.
    以前Yさんに頂いたお手紙も載せさせてください。

     

    私が摂食障害を克服し、立ち直ってこれたのは、やはり人の存在が大きいです。肯定100%の愛情を、いつも本当にありがとう。私もあなたを愛しています。

    安心感をくれて、どうもありがとう。

    自分が愛されていると感じることが出来るのは、私の大きな喜びでありパワーの源です。

    いつも本当にどうもありがとう。

     

     

     

    pps.2021年7月27日、Yさんとインスタライブを行いました♪

    本編は約70分とちょっと長めなのですが、前半部分は見やすいように本編の内容をぎゅっと詰め込み13分間のダイジェストにしました!

    よろしければぜひご視聴ください♪

     

     

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